
@結婚当初の捨松(キヨッソーネ筆、『幕末・明治に生きた会津の女性』より)

A晩年の大山巌・捨松夫妻(『幕末・明治に生きた会津の女性』より)
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日本の女子教育の向上に貢献したいという夢を描いてアメリカを発った山川捨松。ところが、帰国してみると、捨松ら女子留学生を募集した北海道開拓使はすでになく、彼女たちにふさわしい仕事は見つかりませんでした。
24歳になった捨松は、結婚を申し込まれます。相手は時の参議、陸軍卿大山巌(42歳)。薩摩出身で、後の日露戦争で満洲軍総司令官としてロシアを撃退し、「陸の大山、海の東郷(平八郎)」と称された人物です。西郷隆盛のいとこであり、権力欲がなく誰に対しても謙虚で、明治天皇にも信任されました。先妻を亡くした大山は、聡明な女性を妻に迎えて3人の娘の教育を任せたいと考えていました。
しかし、捨松は会津の出身。会津は薩摩によって朝敵(天皇に背く賊)の汚名を着せられたという深い恨みがありました。西郷従道(隆盛の弟)は何度も山川家を訪れ、説得します。「今や日本人同士が敵だ味方だと争うときではありません。人々の模範となるように、昔の仇同士が手を取り合い、新しい日本の建設にあたるべきです」と。
明治10(1877)年の西南戦争で、敬愛する隆盛を敵に回して戦った従道や大山です。明治の国づくりという「公」のために私情を抑えて戦い、散った、多くの先人の思いをよく知っていました。その従道の言葉は捨松の兄・浩の心に響き、すべては捨松の意思に委ねられました。
このころ、捨松はアメリカの親友・アリスに手紙を送っていました。
「現在のところ、私が就職できるような仕事はまったくありません。……今、一番やらなければならないことは、社会の現状を変えることなのです。日本では、それは結婚した女性だけができることなのです。……私の夢をあきらめたとしても、何か別の方法で日本の国の役に立つことができないものか……。自分も幸せになれ、そのうえお国のためにも役に立つ道もあるはずだと思います」
捨松は、当時の日本には先例のないデートを重ね、大山の人となりについて納得したうえで結婚を決意。彼女は藩の怨讐を超え、自分を活かし、国恩に報いる生き方を求めていたのでした。
捨松が大山夫人となった20日後に、鹿鳴館が開館。夜会服を着こなし、流暢な英語で来賓をもてなす捨松は、「鹿鳴館の花」と呼ばれました。一方で、彼女は不平等条約の改正という国家的課題(本誌509号、510号参照)の解決のために貢献しようとする熱き心を持つ"やまとなでしこ"でもありました。
また、鹿鳴館で日本初のチャリティー・バザーを開催。これは有志共立東京病院(現在の東京慈恵会医科大学附属病院)を参観した際、資金不足のため看護婦を養成する学校がつくれないという状況を知ったからです。捨松は渡米中、大学卒業後に看護婦養成学校へ通い、日本女性初の上級看護婦の免許を取得しており、日本にも看護学を修めた女性が必要だと感じていました。
3日間のバザーは皇族や政府高官ら1万2千人が来場し、8千円(米価換算で現在の約1億円)もの売上げは全額寄付されました。これを受け、有志共立東京病院では翌年に看護婦教育所を設立し、日本初の看護婦養成学校が誕生しました。
さらに華族女学校(明治18年開校。現在の学習院)の設立準備委員、日本赤十字社篤志看護婦人会(明治20年発足)の理事として尽力。また、共に留学した津田梅子の夢の実現を、陰に陽に支援しました。梅子が念願の女子英学塾(明治33年。現在の津田塾大学)を創設すると、顧問、同窓会会長、理事等を歴任し、物心両面で支え続けました。
明治37(1904)年、日露戦争が勃発。夫を戦場へ送り出した捨松は、直ちに救護活動を始めました。皇族や華族の夫人、令嬢を中心とした篤志看護婦人会では、包帯や傷病者用の衣服づくり等を教えたり、出征兵士の留守家族を援助するための募金活動を行ったりしました。
このころ、捨松がアリスに送った手紙が、捨松の第二の故郷ニューヘブンの新聞に載ります。 「……この戦争に対する国民の関心は非常に大きく、勝利を得るまではどんなことにも耐えていく覚悟でいます。天皇陛下から労働者まで、日本人は皆一体となってベストを尽くしています。戦争に勝つには、前線で戦っている兵隊たちの力だけでは勝てません。国民の支持を受けていない軍隊は決して勝つことはできません。またアメリカの皆様からの精神的なご支援も、私どもの大きな支えとなっているのです……」
当時、最強の軍事大国ロシアと戦う日本に勝ち目はないというのが世界の予想でした。その中にあって、弱小国日本がアジアに自由をもたらすために、どれほどの犠牲を払い、勇敢に戦っているのかを捨松の手紙によって知ったアリスは、それをアメリカ国民に伝えたかったのでした。
アメリカから帰国して二十数年、捨松はアメリカでの学びと日本の実情を見事に調和させ、祖国愛に満ちた日本人として、この戦争を勝ち抜くために全身全霊をかけて活動していました。明治という未見の国づくりの渦中に生きた捨松は、大山巌との出会いを経て、日本のために役立つ生き方へと向かいました。
大正8(1919)年、捨松は夫を追うかのように逝去。国恩に報いる道を夫と共に歩んだ人生でした。
(参考=会津武家屋敷『幕末・明治に生きた会津の女性』、久野明子『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』、中村彰彦『山川家の兄弟』等)
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